こんにちは!
上原良司さんをご存知ですか?
映画や小説で知られる「永遠の0」のモデルになり
日本のため太平洋戦争で亡くなった特攻隊員です。
12月11日放送の歴史秘話ヒストリア
「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」
にて上原良司さんが取り上げられます。
このような番組や映画、小説をみると戦争で国のために
自分の命を犠牲にしていった人たちのことを思い
行動するように考えさせられます。
戦争で「特攻」という残酷な任務で飛び立った
上原良司さんはどんな人だったのか?
上原良司はイケメン!
遺書(所感)や遺本、家族や記念館
海外の反応について書いていきます!
上原良司はイケメン!どんな人?プロフィール
「上原良司」と検索すると「イケメン」というワードが出てきます。
上原良司さんの当時の写真を見てみます。
上原 良司
1942年慶應義塾大学経済学部入学。翌年、学生徴兵猶予停止により陸軍に入隊。
神風特別攻撃隊員として1945年5月11日に沖縄の米軍機動部隊に突入し戦死。享年22歳。
「所感」という題名の遺書を残しており、戦没学生の代表格とされ度々取り上げられている。 pic.twitter.com/92rQc1CtDm— 358ちゃん💘 (@max358japan) October 20, 2019
この写真が撮られたのは20代の頃のものです。
たしかにイケメンですね!
上原良司さんのプロフィール
名前:上原良司 うえはらりょうじ
出身:長野県池田町
生年月日:1922年9月27日
死没:1945年5月11日(22歳没)
所属組織:大日本帝国陸軍
軍歴:1943年-1945年
国のために命を犠牲にした上原良司さんですが
どんな人だったのでしょう?
慶應義塾大学予科に入学した学生だった上原良司さん。
徴兵されたときは「お国のために命を尽くすこと」
それが両親へのご恩に報いると考えていました。
ですが、入隊してからの人間性を無視した精神教育と
目的不明な訓練を毎日繰り返していると「自由」に
憧れを強めていきます。
特攻隊として選ばれてしまいますが上原良司さんは
「国のためならばそれは誇らしい」
と考えていたと妹の登志江さんに話していたそう。
これは軍の精神教育の思想に染まってしまったもので、
当時ではそうするしかなかったのでしょう。
特攻隊で出撃する10日前に妹の登志江さんと面会した際
良司さんは
「空母なんか俺ひとりで十分だ」
と冗談交じりで話していたり、
「死んでも本望」
などと言っていたことがあるなど
肝が座っている人だとわかります。
上原良司の遺書(所感)・遺本がすごい
上原良司さんは生前
「父上様並びに母上様」という文から始まる
遺書を父と母に対し残しています。
今日のいだてん…学徒出陣もメインでしたね。
秋雨降る中、行進する学生を何度見ても辛い…
上原良司さんもその1人。学徒出陣であの場にいました。良司さんが昭和18年9月22日「徴兵猶予停止」の報せをラジオで聞き、その夜に『クロオチェ』の扉の裏面に書いた遺書です。
戦争は悲惨です…。 pic.twitter.com/9uVRlqz5Tv— ひまり (@himari_0511) October 6, 2019
その一部を抜粋し紹介します。
私は戦死しても満足です。何故ならば、私は日本の自由のために戦ったのでから。
私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。
これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。
それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。
戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます。
読んでいるとなぜか涙が出てくる気がします。
ほんとうに残酷な時代だったことが伝わりました。
戦争は百害あって一利なし
二度と繰り返してはいけないですね...
上原良司の遺本
上原良司さんは軍の厳しい精神教育の末に自由へ憧れ
自由主義になりました。
上原良司さんが読んでいて遺本となった本
「クロォチェ」にはところどころに○印が
付けられており、それをたどると愛する女性へ
送られた言葉が浮かび上がってきます。
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた
しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。
そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした
しかし わたしは いつもきみを あいしている」
上原良司さんの好きだった石川冾子という女性への
思いだったとされています。
この石川冾子さんは実は上原良司さんと付き合っていた
彼女ではなく他の男性の婚約者で
上原良司さんの片思いする女性でした。
しかし、上原良司さんが亡くなる前の1944年に
石川冾子さんは既に結核で病死していました。
苦しい訓練の毎日でしたが日記にたびたび石川冾子さん
に対し思いを書いていたため相当好きだったことがわかります。
上原良司の家族は?妹は?
上原良司さんの家族である妹の登志江さんはこれまで
度々メディアの取材に答えていました。
【上原良司の妹の登志江さん】
尊い多くの犠牲の上に勝ちとった平和憲法を守っての「戦争をしない国」、今まで他国の人を殺すこともなく殺されもせず過ごすことができた幸せを、あらためて振り返っております。もし戦争という事態になったら、父母は、兄弟は、我が子はと、身近かなところから思いを⇒ pic.twitter.com/AmHFxsY3WQ— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) January 6, 2018
終戦64年の時、上原良司さんの妹登志江さんがお話をされたものの中で、個人的にグサリと刺さった部分。
普通の家庭と何ら変わらないはずだった上原家を引き裂いたのはあの戦争です。
「兄たちの死は何だったんだろう」
登志江さんのこの問いの答え…私はこれからも問い続けていきます。 pic.twitter.com/vu9MtJry6r— ひまり (@himari_0511) July 27, 2019
戦争を知っている人が時代が進むごとに少なくなって
いることは仕方のないことですが、
戦争について伝えなくてはいけないことを伝える。
その使命を妹の登志江さんは果たしているように思います。
上原良司の記念館・記念碑は?
上原良司さんの記念碑がありました。
ちょっと遠出して上原良司の記念碑と生家の跡地に行ってきた
上原良司という人は↓こういう人
靖国神社には行かないよ ―― ある特攻隊員の遺書 https://t.co/eZo2Vi14kl pic.twitter.com/wmvUvnQRa9— 犬 (@to_boesuruinu) April 8, 2016
あづみ野池田クラフトパーク
住所:長野県北安曇郡池田町大字会染7770
電話番号:0261-62-6065
特攻に関する資料を展示している施設も紹介します。
知覧特攻平和会館
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡17881
電話番号:0993-83-2525
上原良司の海外の反応
上原良司さんについてを広めようとアメリカの記者も取材しています。
今日の東京新聞夕刊。
「太平洋戦争末期、二十二歳で戦死した神風特攻隊員の上原良司は日本の敗戦を予見して、遺書で「日本が真に永久に続くためには自由主義が必要」と訴えた。その生涯を伝えるノンフィクションを年内にも出版しようと、米国人記者(マシュー・バークさん)が取材を進めている」。 pic.twitter.com/NtdTzPN1pi— 望月慎太郎 (@mionao21) March 29, 2018
海外では上原良司さんが残した遺書「所感」が話題になりました。
そのときの海外の反応を一部紹介します。
とにかく読んでみてくれ。
これは傑作だから。
短いけど強烈だよ。
これを読みながら、ソファーに腰掛けて手紙を書いてる日本人を想像した。
そっと富士山を見上げると、桜の花びらがゆっくりと散っている。
文才があるね。
本当にパワフルで感動的な手紙だ。
戦争は恐ろしすぎる。
作戦に意義を見出せないでいるのに、誇りには思ってたのが興味深いね。
日本人と海外の人とでは感じ方が違うんじゃないでしょうか?
私も当時の日本はおかしかったと思いますが、
海外から見るとまた意見も違ってくるでしょう。
しかし、戦争は繰り返してはいけないと思える
そんな世界になることを願うばかりです。